年度別受賞者一覧

平成25年度 社会貢献者表彰 受賞者一覧
(敬称略)
人命救助の功績
  • 海難・水難、交通事故、遭難等に際し、身命の危険を冒して救助・救援に尽くされた功績
  • 犯罪等の発生に際し、身命の危険を冒してその解決に協力された功績
  • 災害・事故・犯罪の発生を未然に防いだ功績
藤田 匡二  (埼玉県)
平成24年3月20日午後9時10分頃、東武伊勢崎線春日部駅構内のホームで電車を待っていたところ、同ホームから人が転落したのを目撃した。転落した男性の様子を確認していたところ、回送列車が通過するとアナウンスが流れたため、とっさに線路に降りたが、引き上げるのは無理と判断して、向いのホーム側に引っ張り出していたとろ、回送列車が急制動を掛けながら進入してきた。転落した男性は電車のスカート部分と接触したため、右腕前骨折等負傷したが、間一髪一命を取り留めた。 >>詳細
推薦者/春日部市消防本部
河野 正二  (茨城県)
河野 よね子  (茨城県)
平成24年11月27日午前8時45分頃、茨城県日立市のアパート3階で、男児(3歳)が窓の格子の間に頭が挟まり、首から下が格子の外側に出て宙吊りのような状態で泣き叫んでいる所を、向かいのアパートから河野よね子さんが発見し、夫の正二さんと救出に向かった。正二さんは男児の部屋に向かい、よね子さんは119番通報した。男児の部屋は施錠されていたため、正二さんはアパートの共用階段の踊り場から、男児が宙吊りとなっている階下の住宅のひさし(奥行約45cm、幅2.25m、地上まで高さは約7m)に飛び移り、ひさしの上で消防隊が到着するまで男児を支え続けた。男児は軽傷で済んだ。 >>詳細
推薦者/日立市市長 吉成 明
小林 慎太郎  (福岡県)
竹内  亘  (福岡県)
平成24年11月19日、福岡県宇美町で発生した住宅火災で、下校途中の小林さんは建物内に人影を目撃したため、付近にいた竹内さんに「中に人がいる」と声を掛けた。二人で建物内に入り、70歳代の夫婦を救出した。火は天井まで達しており、救助された夫人は足に火傷を負っていたため、二人で脇を抱えるように外へ連れ出した。その後消防隊が到着した。消防隊は「防火服を着ていても近寄りがたいほどの熱さだった。二人に救出されていなければ、ご夫婦の命は危なかったかもしれない」と語った。 >>詳細
推薦者/宇美町役場 総務課
社会貢献の功績
  • 精神的・肉体的に著しい苦労、危険、劣悪な状況に耐え、他に尽くされた功績
  • 困難な状況の中で黙々と努力し、社会と人間の安寧・幸福のために尽くされた功績
  • 先駆性、独自性、模範性などを備えた活動により、社会に尽くされた功績
アルコール、ギャンブル、薬物、摂食障害、買い物等の様々な依存症からの回復を支援する団体として平成19年に設立された。(平成2年から18年は民間団体として活動)地元の精神病院と連携し、専門家を交えて依存症からの回復プログラムを行っている。主にグループセラピー(ミーティング)を中心にプログラムされている。その他 ヨガ・茶道・音楽社会見学・レクリエーションと多様な活動を通して依存症からの回復に取り組んでいる。また利用者が健康的な生活習慣を身に付ける訓練も行っている。利用者は規則的に京都マックに通所し、上記の活動を通じて依存症から回復・社会復帰を目指す。回復した利用者の中にはリカバリースタッフとして、支援する立場と活躍している。 >>詳細
推薦者/公益財団法人 社会貢献支援財団
1990年に有志により始められた北海道で初めての自主夜間中学校で、今年で24年目を迎え、これまでに420人が学んできた。受講者は戦後の混乱で教育が受けられないまま大人になった人、中国残留孤児やその家族、外国人労働者、不登校や引きこもりなど様々。授業は週一回水曜日の6時から9時まで行われ2教科の授業があり、国語、数学、社会、英語の他、遠足や社会見学、クラス発表会などの行事も行っている。
毎週釧路から何時間もかけて登校していた老夫婦が、一年後には生まれて初めての年賀状を講師宛に送ってきたこともあった。講師はボランティア、授業料と賛助会員200人からの寄付金で運営されている。 >>詳細
推薦者/公益財団法人 社会貢献支援財団
五十洲 廣明  (青森県)
視覚障がい者の相撲ファンのために、全国で唯一の相撲専門テープ雑誌を自費で28年にわたり作り続け、昨年には製作本数200本を超えた。青森県庁職員だった五十洲さんは、相撲好きの同僚が集う相撲道研究会で機関誌「心技体」を発行していた。失明してしまった小学校の同級生の「もっと相撲について耳で聞ける情報があれば…」という言葉がきっかけで、月に1回のペースで「心技体」の朗読や相撲雑誌からの情報などを拾って90分のテープに吹き込み、「声の心技体」とし、全国の相撲好きな視覚障がい者に届けている。 >>詳細
推薦者/公益財団法人 社会貢献支援財団
長崎県鹿町町(当時・現佐世保市)で1999年に役場の保健師から、難病が進行している人や障がい者とパソコンソフトで意思伝達が図れないかと相談があり、簡単な操作でコミュニケーションを図れるソフトウェア「HeartyLadder」の開発を始めた。2000年にはインターネットで無料のソフトウェアとして公開、配布し、入力スイッチの作成やサポート活動を行ってきた。さらに2011年には自分の声で文章を読み上げさせることが出来る「MyVoice」機能を付加し、公開した。筋委縮性側索硬化症やパーキンソン病などの難病患者のために、声が出るうちに自分の声で50音や濁音などを録音しておき、声を失ったあとでもパソコンで文字を入力すれば自分の声で文章を読み上げることができるもの。(同じような機能を持つソフトは有料の場合100万円程で販売されている)メンバーは会社員(プログラマー、医療関係)作業療法士、保健師等で構成されている。 >>詳細
推薦者/公益財団法人 社会貢献支援財団
佐賀県基山町で平成16年から、元気な高齢者が竹の侵入した里山の荒廃を見て、森林を侵食する竹を伐採し、広葉樹を植栽するなどの里山保全の活動を通じ、環境の大切さを地域住民や子どもたちに伝え、地域の人々を巻き込んだイベントを開催するとともに子どもの健全育成や地域の活性化に取り組んでいる。同県の「県民参加の森林(もり)づくり事業」を活用し、里山保全活動のリーダーを育成したり、多分野の団体や企業等と連携協力を模索している。活動に不可欠な寄付やボランティアを獲得するため「ファンドレイジング」の手法として、自らの団体の活動をまとめた1分間CMをインターネット上に公表して広く社会にアピールしたり、民間の製薬会社に「里山保全」を協働で行う提案をするなどの取り組みも行なっている。 >>詳細
推薦者/佐賀県くらし環境本部男女参画・県民協働課
移川 仁郎  (宮城県)
気仙沼市の三峰病院の院長であり、第二次大戦中、軍医としてフィリピンのケソン州インファンタに従軍し、部隊唯一の生還者となったことから戦後慰霊のため同国を訪れ、30年以上にわたり同地区の村々に小学校の建設、井戸や水道施設の建設、医療器具や薬、無料診療などの支援を現在も実施していた。また人材育成のため奨学金制度も設けており、毎年現地を訪れ、進めている事業の様子を確認し、奨学生候補者の面接やテスト自ら赴き立ち会った。これらの支援活動は殆ど私財を投じて行なわれた。同地区は戦後入域が困難となっていたが、移川さんの奉仕活動などの結果、今では親日友好の地区となっている。 >>詳細
推薦者/河村 俊郎
1981年に沖縄県内において、障がい者の働く場を創ろうと、養護学校の教諭や生徒の父母、地域の人と共に母体が結成され、翌年82年に、無認可作業所としてスタートして、創立31周年を迎えた。知的障がい者の働く場として、あるいは職場適応への支援など、社会的に自立するためのサポートや、障がい者の家族の相談にも応じている。県内で6ヶ所の事業所を運営し、2012年には県総合福祉センター内に「カフェめし&ギャラリーさまさま」をオープンし、地域の人々のコミュニティーの場として絵画展やコンサート、講演会などを開催している。これからも、障がい者の社会参加、就労の場の提供、家族を支える活動を継続して行っていく。 >>詳細
推薦者/公益財団法人 社会貢献支援財団
NPO Vハート  (大阪府)
ベトナムで2002年に普通に社会生活が送れる可能性を持った、知的障がい者に向けた自立支援を行う組織として設立された。同国のビンズオン省で障がい者職業訓練センターを2006年に設立し、150名を超える障がい者が寄宿しながら手に職をつけている。また、翌年にホーチミン市には「G-CoCoRo」作業所を設立、通所者は織物や裁縫の技術を学んでいる。ベトナムでは知的障害者へのサポートは遅れており、国柄、海外のNGOの活動は制限され監視も厳しい中、運営方法を模索し活動している。 >>詳細
推薦者/公益財団法人 社会貢献支援財団
障がい児(特に発達障がい児)のスポーツ指導を目的に2012年に大阪市で設立され、スポーツを通じた障がい児・者の余暇支援と自立支援にスポットを当てて活動し、発達障がいを持った子どもに運動を通じてモラルとルールの中で生きる力を育て、可能性を引き出す手伝いをしている。マンツーマン指導で行い、月200人くらいがトレーニングを受ける。このようなサポートを行うところは無く、特別支援学級では学べない、謂わば、個別指導塾のような場所であり、日々予約で一杯の状態である。個々の障がいの状態を見て、それぞれにあった指導をおこなうことから、ここでの療育を受け、出来なかったことが出来るようになるなど、一度覚えた体の感覚は忘れることがなく、大きな成果を生んでいる。 >>詳細
推薦者/公益財団法人 社会貢献支援財団
1977年長崎県雲仙市に障がい福祉の現場での活動を目指し設立された。「ふつうの場所でふつうの暮らし」を目指し、障がいのある本人の願いを叶えるため、試行的な取組みを次々と実践した。職業能力開発のしくみを作って障がい者を職業的自立に結びつけ、グループホームの制度設計・実施でも多くの障がい者の地域生活実現に貢献してきた。2005年、刑務所の中に多くの障がい者や高齢者がいて出所しては再び、刑務所に戻る累犯障がい者の存在に衝撃を受け、「セーフティーネットであるべく福祉、その専門家であるはずの我々が救えていなかった…」という思いから厚生労働科学研究「罪を犯した障がい者の地域生活支援に関する研究」を代表者を務めた、この研究成果を踏まえ司法と福祉をつなぐ「地域生活定着支援センター」を初め、数々の制度が誕生することとなった。2009年に社会福祉法人では初となる更生保護施設「雲仙・虹」を開所し、司法から福祉にソフトランディングするための中間施設を整備した。さらに、被疑者・被告人などにも関わり、更生支援プランを立て、「地域生活の再スタートへの支援」をテーマに福祉的な更生支援を行っている。2013年3月までに自立準備ホームと合わせ延べ124人を受け入れ、支援してきた。 >>詳細
推薦者/公益財団法人 社会貢献支援財団
社会福祉法人 風舎  (宮崎県)
宮崎県日向市で、天然酵母のパンなど素材にこだわった食べ物づくりと販売を軸に、知的障害者や自閉症の人を支える活動を21年にわたり続けている。施設長の溝口氏は兄に知的障害があったこともあり、福祉の道を志した。福祉施設での仕事を経て、兄を受け入れるためにも何かしなければと1992年「パンとやさいの店風舎」を開店した。店は後に小規模作業所から社会福祉法人となり、「知的障害者通所授産施設 風舎」となった。また、グループホーム、ケアホームなども開設し、生活介護事業者「風舎 つるまち」ではちんどんパフォーマンスの練習を重ね地元のイベントに出演したり、アートでの社会参加を目指して絵画などに取り組んでいる。施設長は、障害者が社会に出てトラブルに遭った時にどう難局を乗り越えられるか、そうした力をつけるため「(障害者)目の前に大きな石をおく」という方針で、障害者が望む地域で普通に暮らせる社会を目指している。 >>詳細
推薦者/西日本新聞社 編集局編集委員 木下 悟
鹿児島市に1973年に知的障害者更生施設として開設。利用者の感性溢れる姿勢に「与えられる」側から「創りだす」側になることを目標に、85年から「工房しょうぶ」と称し、木工、陶芸、染織などのクラフト工芸活動を中心に利用者の個性を発揮できる環境に転換した。その後、絵画や音楽などの芸術表現活動が広がり、展覧会などで障がいがある人たちの才能のすばらしさを伝えてきた。06年には人と環境「衣食住+コミュニケーション」をテーマにものづくりと環境と就労を融合させ、パン工房、パスタカフェやギャラリー、地域住民が利用できる地域交流スペースなどを整備し、開かれた施設づくりに取り組んでいる。毎年10,000人以上の人が施設を訪れ交流し、開かれた新しい福祉施設とコミュニティーの役割を果たしている。 >>詳細
推薦者/西日本新聞社 編集局編集委員 木下 悟
「子ども用車椅子は子の成長ごとに買い替えられるが、費用は国から9割が負担される。壊れていない車椅子を廃棄するのは勿体ないし、税金が捨てられているようなもの。この制度を何とか変えられないか…」と考え、海外の発展途上国に送り届けようと思いつき、平成16年にボランティアグループを設立し、同18年にNPOの認可を受けた。会員は約70人、特別支援学校や個人から提供された車椅子を集め、毎月会員が洗浄、修理、整備して新品同様に仕上げ、南アジア、アフリカ、中南米などの子どもに届ける。同25年3月までに20ヵ国3,145台を送り届けた。贈ったら終わりではなく、あくまでも貸与するもので、破損したら直し、部品を送る、小さくなったら次の子どもに貸与するという仕組みを作っている。 >>詳細
推薦者/片野 智之
NPO法人 スマイルクラブ  (千葉県)
体育教師であった理事長が発達障がい児を持つ保護者から学校の体育の事業についていけないので運動を教えてほしいとの依頼に応え、千葉県柏市で1998年に運動教室を開始した。口コミで教室に通う子は増え、開催地域も県内のみならず他県に及んでいる。参加する子どもは障がい児だけでなく、その兄弟や運動が苦手な健常児もいる。2000年からNPOの認可をとり、幼稚園児や中高年向けの体操教室を開き、種目も拡げ、総会員数も増え総合型地域スポーツクラブに進化している。学生にボランティアでの参加促進してきたことで、ボランティアが研修生、スタッフへと育ち、小学校の体育授業のサポート事業も行っている。またアジアとの障がい者スポーツ指導者とのネットワークづくりも行っている。障がい者の領域、特に発達障がいの分野でのスポーツ活動を行なうNPOのパイオニア的存在である。 >>詳細
推薦者/茨城大学教育学部 勝本 真
神 幸雄  (神奈川県)
1997年パラリンピックで日本は未出場種目の脳性まひ者7人制サッカー(CPサッカー)の存在を知り、パラリンピックへ出場したいという夢を持ち、日本で初めて同大会へ出場を目指す脳性まひ者のためのサッカーチームを結成した。活動を広げるため2001年に日本脳性麻痺7人制サッカー協会を設立し、全国大会の開催やCPサッカー日本代表チーム編成に向けた選考会を開催した。神さんも代表選手に選出されたが、2006年には指導者となり、2009年から2011年には監督としてパラリンピック予選大会となる国際大会へ出場した。地元神奈川県でもチームを結成し、ジュニアチームも作ったことから、近隣都県から約50人の脳性麻痺児が通っている。現在は、CPサッカーの普及と発展、障がい児のためのスポーツ環境の充実に尽力している。 >>詳細
推薦者/草野 勝彦
1990年に設立され、2007年にNPO法人となった団体で、これまで23年に亘り会員からの募金で、チェルノブイリ原発事故により被曝したベラルーシ共和国住民に対し支援を行っている。当初はベラルーシ国内に転地療養施設を開設して子どもたちの保養を行っていたが、1997年からは現地における「小児甲状腺がんの早期診断・治療システム」の確立のため専門家を派遣し、両国専門家による共同検診チームにより甲状腺検診を行っている。2009年からは日本医科大学・清水一雄教授指導の下、傷跡の残らない甲状腺内視鏡手術をはじめとする医療技術支援を行っている。 >>詳細
推薦者/公益財団法人 社会貢献支援財団
藤田 善史  (徳島県)
1999年からミャンマーで同国の眼科医に超音波白内障手術の指導等を現在までに23回行っている。同国から来日した保健省の技官が藤田さんの白内障手術の様子を見て、同国の眼科医に新しい手術法「超音波白内障手術」の指導をして欲しいという依頼があったことがきっかけ。同国の白内障手術は政治的背景から情報が乏しく、新手術法は導入されていなかった。各眼科関連関係者と共に、超音波白内障手術に必要な器械や手術道具、眼内レンズ、薬剤をもってヤンゴン眼科病院などで指導するほか、過去に設置した検査機械のメンテナンス、動作確認なども行う。また同国の眼科医を自分の病院に招聘し日本の眼科医療を学んでもらっている。こうした結果、現在ヤンゴン眼科病院では年間6,000件行われる白内障手術の30%が超音波白内障手術で行われるようになり、多くの眼科医が同手術法の良さを認識し個人病院でも普及されつつある。 >>詳細
推薦者/木村 義次
カサノバ エクトル  (愛知県)
ペルー出身の産婦人科医。言語や習慣、文化、医療システムの違いを飛び越え、外国人患者(主に南米出身)と日本の医療システムとの橋渡し役として、名古屋市内のクリニックで、スペイン語、ポルトガル語、日本語で診療している。また、名古屋国際センターにて現役医療通訳や通訳を目指す人にセミナーなども行っている。 >>詳細
推薦者/太田 雅子
香月 武  (佐賀県)
1993年からアジアとアフリカの発展途上国で医師として口唇裂、口蓋裂の手術を行なうボランティア活動を行っている。ベトナムで日本口唇口蓋裂協会の仲間と手術を行ったことがきっかけ。その後は医師仲間に呼びかけてチームを編成し、ベトナムを始めスリランカ、フィリピン、モンゴル、ミャンマーやチュニジアに活動範囲を拡げている。手術の際、現地の医師の指導も行なうので、現地の技術向上にも貢献している。また手術用機材や救急車の寄贈なども行っている。2012年にNPO法人インターナショナル・葉隠を設立し、更なる活動に意欲を燃やしている。 >>詳細
推薦者/西日本新聞社 佐賀総局 諸隈 光俊
チェルノブイリ原発事故の影響が残るベラルーシ共和国の子どもたちを北海道などに招き、健康回復と放射能を排出させるために保養させる活動を1992年から行い、648人を受け入れてきた。福島原発事故の発生により2012年からは同国へ向けた活動は休止し、福島県など約40人の子どもたちを受け入れる活動を行っている。 >>詳細
推薦者/公益財団法人 社会貢献支援財団
井上 勝江  (東京都)
1949年に設立された関東医療少年院で、院内の20人位の少女たちに染色を教えていた。同院では棟方志功氏の弟子でもあった木版家の棟方末華氏が木版の指導をしていたが、末華氏から木版画を教えてもらいながら染色の指導を20年間続けた。その後同院の建替えや自身の結婚、子育で指導は止め、末華氏も亡くなった。1995年頃、再び同院から請われ、少年たちに木版画の指導を再開した。同院には病気がちの子や心の病のある子が多い。少年たちが一つのこと集中してやることは有意義であり、一年がかりで作品を仕上げ、カレンダーに仕立てられ販売される。「誰のためでもなく、子どもたちと共に手仕事を通じ、何か見つけてくれることを望み、やっているだけ」と40年近くにわたりボランティア活動を続けている。 >>詳細
推薦者/公益財団法人 社会貢献支援財団
里親探しを専門とする民間の児童福祉団体で、神戸と大阪に事務所があり、1960年に活動を開始した(大阪は64年から)。様々な事情で社会的養護を必要とする子どもを新聞やラジオで紹介する「愛の手運動」を同62年から神戸で、同64年から大阪で開始し、現在までに2,300人を超える子どもが同運動を通じて里親や養親の元で育っている。新聞やラジオと言ったメディアとタイアップして里親探しを行なっている団体は全国でも唯一で、神戸新聞紙面における「あなたの愛の手を」の連載は今年9月16日で2,156回を数えた。 >>詳細
推薦者/神戸新聞社 文化生活部長 西海 恵都子
ベトナム人新聞記者であったチャン・ヴァン・ソイ氏がホーチミン市中心街にストリートチルドレンが多くいることを目にし、子どもたちが教育を受けられるようにしてあげたいと思い、1984年に無料授業が受けられる施設を設立。学校運営と子どものたちの生活の場の提供、能力開発、レクリエーション活動、職業訓練、奨学金・里親制度、子どもや家族の健康管理や社会心理面でのケア、ソーシャルワーカーの研修を行うようになった。現在7カ所の「能力開発センター」を運営し、約1,300名の子どもたちのケアをしている。 >>詳細
推薦者/公益財団法人 社会貢献支援財団
代表者の民谷喜美子さんが20才位の時に門司にある日本で唯一のパゴダ(ミャンマー寺院)を訪れ、北九州市とビルマ(現ミャンマー)の歴史と僧侶の出会いがきっかけとなり、20年後再び訪れた後から僧侶や留学生らと交流を深めていくうちに、同国の貧困な村は古い校舎の建て替えを望んでいることから学習環境を整えようと2001年に会を発足させた。自然に支援の輪が広がりフリーマーケットや屋台の収益金などを募金、そして北九州市民を通じて県外からも共感された多くの善意の募金などを元に2002年には既存の古い小学校2校が建て替えられ、2003年3校以降は政治的背景などから8年間は困難期もあり、2011年4校、2012年5校の小学校の建て直しを行い、760人以上の子供たちが安心して学べる環境を整えた。また今年2013年には6校240人の中学校が建て直される。4校を機に活動に区切りをつけるつもりだったが、ミャンマー側の貧困な村の永年の思いと、北九州市民の暖かな多くの賛同者の後押しから「ミャンマー学校支援の会」は「北九州再発見」ミャンマー学校支援として活動が継続されている。 >>詳細
推薦者/公益財団法人 社会貢献支援財団
中田 ケンコ  (滋賀県)
ブラジル出身で1992年に来日した際、日本企業へ出稼ぎに来たブラジル人労働者の子どもの置かれた境遇に衝撃を受け、一度は帰国するが単身1998年に再来日して、滋賀県の愛荘町に「ブラジル人学校コレジオサンタナ学園」を設立した。0歳から16歳までが通う一環教育を行い、順調に運営を続けていたが、2007年のリーマンショック以降事態が一変し、学校の存続は危ぶまれた。子どもの居場所を失くすまいと、教師の給料を半減したり、支援を呼びかけたり、古紙やダンボールを集め売り、給食の野菜は畑で生徒と育てる等して運営を続け、授業料を払えない子どもも受け入れている。2010年には特定非営利活動法人として認定された。 >>詳細
推薦者/愛荘町 町長 村西 俊雄
アナコット カンボジア  (カンボジア)
代表者の田中千草さんはカンボジア国内で一番のマンモス公立小学校、ワット・ボー小学校で教師として赴任し、校長の顧問という立場で教員の意識改革を行い、その質の高さから評判を呼び同校はカンボジアいちのマンモス校となった。音楽の授業(情操教育)が行なわれていなかったカンボジアで、独自で音楽教科書、カリキュラムを作り、教えている。音楽隊が結成され、来賓訪問の際は演奏することもある。また、田中さんは極度の貧困など家庭に事情のある7歳から16歳までの男女6人を引き取り、生活を共にしている。学校から報酬は受け取っていないため、帰国した際の講演料や預金などで子どもたちとの生活を賄っている。7年にわたる活動。 >>詳細
推薦者/公益財団法人 社会貢献支援財団
理事長の菅田さんが1998年にカンボジアを訪れ、田舎の学校の様子を見て「何とかしなければ…」と支援を開始した。年間1棟の学校建設を目標に、現在まで12棟を建設している。ハード面だけでなく、住民が参画して学校を大切にするよう、子どもたちに遊具を作らせたり、日本の子どもとの交流も行なうといったソフト面に力を注いでいる。井戸やトイレの建設、奨学支援の里親や留学生の支援、写真展なども行なう。その他、群馬県の薬物乱用防止運動推進連絡会議、NPO法人群馬県青少年オーケストラ協会、群馬県アイバンク、安中碓氷ユネスコ協会、安中ジュニアオーケストラで役員等を務め、多くの分野で長きにわたり社会貢献活動を行っている。 >>詳細
推薦者/NPO法人 国際地雷処理・地域復興支援の会(IMCCD)高山 良二
臼田 玲子  (ベトナム)
ベトナムのハノイを訪問した際に目にした裸足の物売りの少女や物乞い、靴磨きの少年たちに心を痛め、2003年に日本ベトナム友好協会川崎支部の事務局長として同国ダナン市などに放置自転車を贈る活動を開始した。(現在も継続されており本年9月には寄贈数10,000台を越える予定)その後2008年にベトナムに居を移し、ホイアン市に土地を購入して環境配慮型建築でカフェを開設。学習環境に恵まれない若者を採用し、接客、調理、語学を指導している。学んだ技能で良い職を得ることや後輩の指導出来るようにと、若者の自立を視野においたもの。同市はベトナム戦争により枯葉剤の後遺症や障害に苦しむ人が他の地域よりも多く就労困難と低収入を引き起こしている。またカフェではNGOリーダーや社会企業家を迎え座談会を開催したり、環境問題に取り組む人々とのネットワークづくりの場ともなっている。 >>詳細
推薦者/Mai Dang Hieu
Saetanar  (ミャンマー)
2002年よりミャンマーのシャン州で、学校建設を通じた地域開発事業を実施している。校舎の建設のみならず、学校運営を支える教員や教科書から文具、トイレや衛生設備などのソフト面の整備を、地域住民の参加と所得創出の仕組みを取り入れた事業を行っている。建設に住民が参加、協力し、施行管理や労働力の提供で節約した建設費を、その学校のコミュニティ開発に活用する。この資金を使い、住民のアイデアで簡易水力発電や農業、小規模金融等の事業を行い、その収益で運営や地域開発を支えて行く仕組み。この事業に重要なのは村の選定で、住民が主体となって学校建設・運営を実現しようと意思のある村々を選ぶことが鍵となっている。5年間で100校の小学校建設をめざし、2007年に100校目、2012年には200校目が完成、2017年までに300校が完成する予定。 >>詳細
推薦者/日本財団
山本日本語教育センター  (カンボジア)
1996年にカンボジアのシェムリアップで、長い内戦により疲弊した同国の復興に役立てるため、観光に訪れる日本人相手に仕事が出来てカンボジア人の経済的自立が図れるように、同国と日本の友好を深める目的で、代表者の山本さんが私費を投じて設立した日本語教育センター。約60名の学生が学んでおり、卒業生はJHC(カンボジア現地手配専門会社)のツアーガイドやホテルマンになるなど、培った日本語を活かしている。同センターは「山本学校」と呼ばれ親しまれており、現在は山本さんも運営に携っているが、ゆくゆくは現地に運営を任せたいと考えている。 >>詳細
推薦者/佐藤 穂貴
藤田 京子  (千葉県)
都内で勤務していた昭和59年、赴任先の墨田区の中学校に中国引き揚げ者の子どもが入学してきたことから「外国の文化背景を持つ子ども」の日本語教育分野で貢献してきた。藤田さんは職務の枠を超え存在自体が問題を抱える子どもと家族の心の拠り所となり支援を続けている。教職を退いた後、平成16年にFSC(外国人生徒学習の会)を発足、ボランティアの協力を得て学習会を行なっていたが、これだけでは不足であると、区教育委員会を動かし「すみだ国際学習センター」が設立、当該の子どもは来日直後から集中的に200時間を超える日本語教育を受けられるようになった。また、FSCはセンター内外を問わず当該の子どもの教科学習支援も行う。平成19年には「東京の日本語教育を考える会」を結成し、有識者や教育関係者、NPOなどと連携しフォーラムや講演などを通じ日本語教育の抱える諸問題を解明し、改善に向け活動している。 >>詳細
推薦者/中山 眞理子
不登校の子どもやひきこもりの親、市民、学生などが共同し、不登校の子どもたちやひきこもりの人たちのための相談活動や就労支援などを行っている。理事長自身が不登校、ひきこもりの子どもをもつ親であったことから、共通の悩みを持つ親が集まり、1988年に設立され、2010年に法人格を取得、25年に活動は及ぶ。不登校児の親の会とひきこもり家族の会を毎月1回開催しているほか、不登校児が毎日集うフリースペースを運営しているほか、ひきこもりの就労支援も行っており、社会復帰への第一歩として、1日だけアルバイトに行くというトレーニングなどを行っている。 >>詳細
推薦者/公益財団法人 社会貢献支援財団
小林 普子  (東京都)
2004年から新宿区大久保で、外国にルーツを持つ児童、生徒にボランティアで日本語教育及び学校の教科学習を行っている。同区は区民の11%が外国人という土地柄であり、日本語の習得の遅れや学習の遅れ、これらの子どもたちに多い、いじめや非行の防止活動にもつながっている。進学を希望する者は皆高校に合格し、これらの受験生の志望校選択の相談から受験手続、合格発表にいたるまでを親や学校、行政に代わって面倒をみている。 >>詳細
推薦者/内山 清一
安田 光一  (新潟県)
更生中の少年を積極的に雇い入れる企業・事業者でつくる新発田市協力雇用主会の会長を務める傍ら、自らが創立した株式会社安田組で少年院や鑑別所を出た少年たちを率先して雇用。溶接などタンク建設に必要な技術を教え、社会復帰の後押しを続けて来た。これまで20年ほどの間に約50人の少年たちを雇用してきた。安田さんは、中学卒業後に石油タンクの建設工事の親方について現場の仕事を学び、独立した経緯から「職人の世界に過去は関係ない」と考え、仕事、住む場所があり、技術を身につければ自信を持って人生を歩んで行けると確信して若者を雇用している。 >>詳細
推薦者/朝日新聞 新発田支局 支局長 戸松 康雄/小柳労働管理事務所 小柳 龍央
1985年からいじめや引きこもりで不登校となってしまった子どものためのフリースクールを都内等で運営している。理事長の長男が不登校となった時の経験から「まずは親の学び合いと支え」が重要であると考え、親の会を作った。親の理解が進むと子どもが元気を取り戻してきたことから、子どもの居場所を作ろうと「東京シューレ」を設立した。ここで子どもは自ら「何をするか、何を学ぶか」などを自分で考え自分で決める。子ども同士で毎週ミーティングを開き、自然にコミュニケーション力や社会性を身につける。卒業した子どもは、学校に戻る、大検を受け進学する、働く、起業するなど様々な道を自分で選択している。活動の最大の目的は「いわゆる学校だけではない、多様な学び、多様な教育があってよく、その選択が不利益にならない社会を目指す」こと。28年に及ぶ活動。 >>詳細
推薦者/白梅学園大学 学長 汐見 稔幸
秋田  稔  (岡山県)
昭和53年から岡山市の児童養護施設岡山市善隣館で散髪奉仕活動を行っている。終戦後、稔さんの父、資夫さんの兄が始めた奉仕活動を昭和21年から資夫さんが手伝う様になり、稔さんは大学卒業後、東京の理容室に勤務していたが、岡山に戻り父の店を継ぎ、善隣館での奉仕活動も引き継いだ。親子2代で66年にわたる奉仕活動。 >>詳細
推薦者/児童養護施設 岡山善隣館 三宅 嗣朗
特別分野の功績・海の貢献賞
  • 海の安全確保、環境保護、汚染防止等に尽くされた功績
  • 海に関わる産業分野において
     ・傑出した技能による同分野への貢献と技能の伝承に尽くされた功績
     ・優れた発明・考案・改良等により同分野の発展に尽くされた功績
三浦 榮一  (青森県)
青森県五戸町を流れる五戸川の不法投棄などで悪化した水質、環境の改善に取り組もうと、平成5年に自治会の有志らと清掃や草刈を始めた。その後平成10年に「五戸川をきれいにする会」平成18年に「五戸川流域の保全と創造を考える会」平成20年に「魚にやさしい五戸川の環境づくりを進める会」を設立して会長を務め、それぞれ自治会や学校、地域住民や他団体と協力して同川の環境保全に努め、次世代に継承してゆく取り組みや、多様な生物の生息が可能な自然環境を取戻す、生態系保全活動を続けている。 >>詳細
推薦者/五戸町 町長 三浦 正名
馬塚 丈司  (静岡県)
1984年から静岡県浜松市の河口周辺環境の保全活動を始め、翌年ボランティア団体を創設した。絶滅危惧種の保護調査活動、海岸環境回復活動、ポイ捨てゴミの削減活動、子どもたちへの感動教育、講演会などを行ってきた。地道な活動により「野鳥の森」の建設の実現や「絶滅危惧種アカウミガメとその産卵地」の市文化財指定化の実現など自治体を動かした。特に先駆的なアカウミガメの保護活動では国を動かすなど、ウミガメ等希少生物保護の礎となった。海岸ゴミ問題を解決するため提唱した「ウェルカメクリーン作戦」は1990年から現在も続き毎年8,000人以上が参加する市民行事となっている。2000年にはNPO法人サンクチュアリエヌピーオーを設立し、市民や企業、行政と協働するなど、29年にわたり活動している。 >>詳細
推薦者/田辺 久世
東日本大震災における救難活動の功績
  • 東日本大震災に際し、復旧・復興に尽くされた方、また尽くされている方
  • 東日本大震災に際し、身命の危険を冒して救助、救難などに尽くされた方
    (当該の活動により亡くなられた方を含みます)
  • 東日本大震災に際し、身命の危険を冒して二次的な災害や事故などを未然に防いだ方
    (当該の活動により亡くなられた方を含みます)
宮城県亘理地区で、震災直後から避難所で困窮していると思われるオストメイト(人工肛門・人口膀胱保有者)のサポートを、皮膚・排泄ケア認定看護師と地域の保健師、行政担当者がチームを組んで行った。支援が必要と思われるオストメイトを各避難所からリストアップしてもらい、人数や避難先の情報を亘理役場保健福祉課で集約し、そこから随時情報提供を受け巡回してオストメイト一人一人に対応した。避難時に自分の装具を持ち出せなかったり、避難所で装具の交換場所がない、トイレを占有してしまう、そもそもストーマ(人口肛門)について知る人が少なく理解されにくい、ゆえに集団生活が困難で非常にストレスを抱えるオストメイトの支えとなった。 >>詳細
推薦者/宮城社会保険病院 病院長 石井 元康
東日本大震災発生後、宮城県南三陸に拠点を置いてボランティア活動、支援活動を行っていまる。代表の勝又三成さんは同県内で被災し、仙台市内に戻る際に被災状況に衝撃を受け、支援物資を届けたり、義援金の募金活動を行ったりしていた。その後、南三陸で海中の瓦礫撤去や行方不明者捜索、子どもたちのためにイベントを開催したほか、同町のわかめ工場の漁業支援や「地元の海で泳ぎたい」という子どもたちの願いに応えるため、約3000名以上のボランティアと共に長須賀海水浴場のビーチ清掃を行い、昨年7月「長須賀つながりビーチ子ども広場」をオープンさせた。 >>詳細
推薦者/沼崎 司/神山 歩/阿部 正浩/TSUNAGARI南三陸シーモンキー 学生リーダー 岩石
/中山契約会 会長 阿部 倉善/宮城県漁業協働組合中山地区養殖組合 組合長 最知 隆
/株式会社 ニュー泊崎荘 三浦 宮倫子/古田 博一/山本 晋吾
浅見 健一  (宮城県)
震災発生時、館長として勤務していた宮城県仙台市の高砂市民センターに1,200人以上の住民が避難してきたが、同センターは市の指定避難所ではなかったため、行政からの支援は断られた。このことに浅見さんは奮い立ち、「以後行政からの支援は一切受けない」と啖呵を切ると、避難者に向けて「私の命にかえても皆さんをお守りします」と宣言し、近隣の企業や友人知人などに支援を求めた。すると、全国から予想を上回る支援が届き、同センターでは震災翌日から異例の一日3食の支給を可能にし、震災当日から2週間以上自宅に帰らず避難者を支え続けた。「行政に頼らない避難所」として広く報道された。同センター避難所が閉鎖されてからも支援活動は継続し、退職後は震災復興支援グループ「きぼう」を設立し仮設住宅及びみなし仮設住宅などへの支援活動を継続している。 >>詳細
推薦者/髙橋 實
田村 満  (岩手県)
陸前高田市で高田自動車学校(以下同学校と略す)を経営しており、震災の津波の惨状の中、高台にあった同学校は被害を免れ、広大な敷地と宿泊施設、その他の建物は、救援センターや全国の中小企業家同友会約43,000社の会員から届けられた支援物資の集積センターの役割を果した。商売柄、自動車や運転手(教官)、燃料が十分にあったため、田村さんの指示で同学校の全員と、八木澤商店をはじめとする地域企業経営者の仲間と協力し市内各地の避難所や、行政の手が回らない避難所や住民にも救援物資を届けて回った。同学校の教習コースは各県や警察の野営地となり、合宿所は岩手警察の臨時宿泊に提供された。市内の様々な事業所にも教習室を仮事務所として提供した。同学校の営業再開を社員から催促されても救援支援活動を優先し、今年になっても市へ派遣された名古屋市派遣職員を合宿所にて受け入れている。併行して地元の企業家らと「なつかしい未来創造株式会社」を設立し、地域の資源を活かしながら、約500名の雇用を生み出し、複数の事業を育成してから解散することを目指し活動している。 >>詳細
推薦者/森谷 潤
青木 孝文  (宮城県)
震災の犠牲者の身元確認が難航する中、日本歯科医師会は警察庁からの要請を受け、歯科所見による身元確認のために被災地に多数の歯科医師を派遣し、8,750体以上のご遺体の歯科所見採取作業にあたった。これらの情報と、歯科医院等から取り寄せた膨大な生前歯科情報を照合する作業は困難を極めた。そこで、東北大学副学長を務める青木さんは、歯科情報照合システム「Dental Finder」の開発及び無償提供を行うとともに、情報技術を活用した迅速かつ効率的な身元確認ワークフローを確立し、歯科所見による犠牲者の特定に大きな成果をあげた。青木さん自身も長期にわたって宮城県警で照合作業に尽力した。 >>詳細
推薦者/公益社団法人 日本歯科医師会
髙橋 芳喜  (宮城県)
宮城県南三陸町歌津地区で被災し、家も流されたが、同地区は支援から取り残された地区であったことから、インターネットを通じ全国に現状を発信して支援者を集めた。また地元で活動していたNPOに依頼して学習塾を開校してもらい、そこで小学生から高校生の学習を支援した。NPOの学習塾が閉鎖された後は、漁師としての仕事も始まったが、リフォームした自宅を開放して塾をボランティアで続け、現在もたくさんの子どもが通っている。 >>詳細
推薦者/三浦 秀斗
NPO法人 ゆめ風基金  (大阪府)
1995年の阪神淡路大震災を機に、自然災害で被災した障がい者を支援する目的で設立され、2001年に法人格を取得した。16年間様々な自然災害に置いて海外も含め被災地の障がい者・児に4千万円以上届けてきた。東日本大震災では2億円を拠出。いちはやくノウハウを活かして全国に広がるゆめ風ネットワークと連携をとり被災地の障がい者の状況把握(513か所)を開始し、職員を派遣し支援体制を確立し被災した障がい者の生活拠点への資金支援を実施した。 >>詳細
推薦者/公益財団法人 社会貢献支援財団
成冨 真介  (香川県)
震災発生から3カ月後に南三陸町に入り、長期ボランティアを行ってきた。瓦礫撤去、支援物資の受け入れ配布など行っていたが、潜水士の資格を取得し、海中の瓦礫撤去や漁の障害物などの海中調査を行った。その後2012年5月から行方不明者の捜索に携った。さらに公立志津川病院裏の、海水で満たされた側溝(長さ40m深さ2m)の捜索を呼びかけ、町役場職員や警察、ボランティアと合同捜索を行なった。その後も作業を続け約120本の遺骨を探しだし、宮城県警に届けている。 >>詳細
推薦者/株式会社M.BROTHERS 代表取締役 宮脇 康敏
神奈川県逗子市の市民団体で、震災直後には水や食料などの物資を陸前高田市竹駒町に運んだ。以来、同町に支援を続けている。特に、支援物資を届ける中、仮設住宅では女性が引きこもりがちになっているのに気付き、女性の働く場を作ろうと、約700万円の募金を集め、同町の材木店等の協力や逗子葉山建設組合の協力で2012年8月に「竹駒食堂」を完成させた。食堂は地元の食材を使い、朝昼営業している。今後は夜も営業して拡大しながら独居老人などの地域のコミュニティと成るようにしたいと考えている。逗子から陸前高田市まで片道600kmを往復しての支援活動。 >>詳細
推薦者/公益財団法人 社会貢献支援財団
震災当日に4人の大学生によって設立され、時間はあるが資金と経験の無い学生をボランティアに派遣する為、現地で活動する団体と学生の間に入り、交通と宿泊とボランティアがパッケージとなったプログラムを提供し、学生の力を効率的に活かせるシステムを作った。これまでに18団体と提携し、被災3県13ヵ所へ延べ13,336名を派遣し、瓦礫撤去や仮設住宅でのコミュニティ支援などを行い、報告会の実施や漫画やSNSを用いたボランティア経験の蓄積を社会へ発信し、震災を負の経験で終わらせない活動を行っている。東北での活動のノウハウを活かし、将来起こりうる災害に率先して活動できる人材を育成している。大分や和歌山の水害被害などでもリーダーシップをとり活動した。都内に拠点。 >>詳細
推薦者/特定非営利活動法人 Youth for 3.11 関西支部 支部長 山川 貴大
震災後、被災地へは各製薬会社が提供し取りまとめられた医薬品45tが届けられていたが、管理の難しいワクチンは含まれておらず、混乱を招くとの懸念から追加の寄付も控えられていた。そんな中、生活環境の悪い避難生活下で高齢者の肺炎が増えることが懸念され、「肺炎球菌ワクチン」を求める被災地の医師たちの声が、同ワクチンを製造・販売するMSD株式会社の肺炎球菌ワクチンプロダクトマネージャー(当時)内藤麗さんに届き、被災地の高齢者への同ワクチン接種へ向けて動き出すこととなった。内藤さんはワクチン提供への諸問題を洗い出し、社内、医薬品卸会社、現地の医師や災害派遣の医師たちと協議を重ねた結果、気仙沼市医師会が接種プログラムを作り上げ、同市および南三陸町で2ヶ月後の5月より計約5,500人の高齢者への接種が実現した。その後、「ほかの地域でも出来るはず」との声がつながり、日本赤十字社が海外救援金による復興事業として宮城、福島、岩手の3県全域でも行うこととなり、2012年3月までに48万人を超える高齢者が接種を受ける大規模な事業となった。 >>詳細
推薦者/株式会社ケアーズ 白十字訪問看護ステーション 代表取締役 統括所長 秋山 正子
震災後の4月に香川県高松市消防職員として石巻市で支援活動を行ったが、消防士としてこれまでに見たことも無い惨状に茫然とし、帰宅後も被災地への思いが残り、南三陸に場所を移して中井さんを中心に協議会のメンバーで活動を継続することにした。南三陸では崩壊寸前の家屋から家具を運び出したり、ビルの屋上に上り流された瓦礫を下すなど消防職員にしかできない危険な作業を行って本領を発揮した。香川と南三陸を自家用車で往復し、103日、延べ274人の職員が作業にあたった。また、高松市でボランティアの横の連携を図るため、「あの日を忘れないプロジェクトin香川」を立ち上げ2012年10月、2日間で10,000人以上の来場を迎えた「被災地を思い、被災地に学ぶ」と題したフォーラムを地元企業の協力のもと開催した。 >>詳細
推薦者/一般社団法人 よみがえれ南三陸 代表理事 中島 響