受賞者紹介

第51回 社会貢献者表彰

社会貢献の功績

かさはら ごろう

笠原 五郎

(東京都)
笠原 五郎

家族が引揚げ者であるため、特別な理解と関心を抱いて昭和50年後半から「中国残留孤児」問題にかかわってきた。
なかでも、日本の両親や親族が見つからないが、日本での生活を希望する帰国者を憂慮し厚生省に掛け合って、100人以上の帰国者の「保証人」となり、無事に日本で日本人として人生を送れるようにした。
そのほか、中国語を活かしボランティアで、帰国者の日本語教室「東京都城南地区帰国者日本語教室」(2001年)を毎週土曜に開き、先生3名、生徒20名ほど、8年間教えていた。
笠原さんは全て自費で賄い、日本語教室以外にも日本の習慣、花見会、修学旅行、忘年会等を開催し、帰国者たちの戸惑いや哀しみをきめ細かい愛情をもって支えてきた。
帰国者たちは、御年98歳を迎えた笠原さんを「日本の慈父」として慕い、生きる支えとなっている。

推薦者:武井 優、宮崎 慶文、『笠原さんへの感謝会」の世話人

(注)当時と状況が変化している内容も含みます

本日は、本年度社会に貢献されている方々を表彰するため、超一流のホテルに招待してくださり、会長自身一人一人に表彰状を手渡してくださり、誠に光栄でした。

会場では係員の親切な接待を受け本当にありがとうございました。

式場で会食中、ある貢献者の方から保証人制度について「どうしてあなた一人で100人以上もの保証人になったのですか」など質問を受け、説明し納得してもらいました。

保証人が必要なこと、住宅の保証、上級学校志望者の学費借入保証人、はりマッサージ専門学校3年間の学費借入などの保証人になり、自立後の返済の責任を見守って返済完了に協力しています。

呼び寄せ家族の保証人は在職証明書が必要で、退職者は資格がないので保証人になれません。有資格者にお願いするのも一苦労です。入国後の就職予定を提出させました。

 

1998年、永年経営していたメッキ工場を廃業した時、中国から終戦の時別れた肉親を捜しに残留孤児たちが訪日してきました。私は終戦の混乱期に一兵卒でシベリアに抑留されたことがあり、何もできなかったので、今度こそ忘れていない中国語を使い手助けできると考え、すぐに会場のある代々木旧オリンピック宿泊棟へ行き、既に活動していた「中国残留孤児虹の会」に入会し、活動見習いと会長のカバン持ちを引き受けました。

虹の会の活動は広く、先ず訪日団を成田空港で出迎える団長に用意した花束を差し上げることから、都会のホテル内で宴会を催す、一般の方に呼びかけ参加してもらい、会食には中国語のわかるボランティアに応援してもらい、歌などを歌ってもらうことまでありました。

毎回冬にはボランティア団体よりお土産品の贈呈がありました。春には毎年帰国した人を招待して会食を共にしました。また所沢の定着センターで研修している人を慰問し、近況を聞きます。ここでは3ヵ月研修します。ここにいる間に帰国者の定着先の都市が決定します。

他の団体も活動していますが、資金が不足しており活動は消極的でした。

定着先は東京希望が多く、厚生省は各地方に分散させる方針でしたが、大都市には各種専門学校も充実しているので、自立のためにも都会だ!と譲らぬ帰国者もあり、身元引受人希望も都会人が多いのです。どうしてもセンターにいる間に定着先が決定せず、残る人も出て困って私たちの力を借りる役人がいました。

センター所長から「身元が判明した孤児が本籍の福島で断りを受けたので福島に行かず東京に定住したいと…こういう人を引き受けるのは大変なことだと承知している。相当の苦労をすることはわかります。笠原さん、誰かに頼んでくださいよ」と身元引受人になってほしいと電話がありました。

困ったときばかり頼んでおいて、後のサポートはなく「あの人たち今どうしている」といった問い合わせもありません。お役人はセンターから出てもらえば後は引受人の責任で、自分たちの役目は終了したといった感じです。本当に引受人は苦労しています。もっと温かい行政になって帰国者を安心させてください…。

こんなことを書きましたが、悪口ではありません。本当の話です。

帰国者たちが団結して裁判を起こしたのは皆さん知っての通りです。帰国者は行政との交渉を永年ボランティアに委ねていましたが、日本語も上手になり自分たちの力を出して弁護士さんたちと協働で改善の交渉を始めました。国会議員の先生たちにも応援を頼み、先般国会裁定で終了。全国会議員の賛成で裁定終了し、今では帰国者は日本に帰ってきてよかったと喜んで暮らしています。

裁判などやりたくありませんでしたが、いくら要請しても受け入れられずやりました。生活保護で遇されて誰が喜ぶと思いますか。

 

私が独自に行った個人の活動について書きます

工場を辞めて倉庫として活用しました。

2階には心ある人からもらい受けた背広などの衣類をクリーニングして集め、必要な人に差し上げました。

1階には知人の電気屋さんや知人から中古品のテレビ、冷蔵庫、洗濯機などまだ充分使用できる電化製品を譲り受けて置いていきました。「脱水機が無いね、今度新型を買うから古いのをあげるよ」と協力してくれる友達に頭をさげて最敬礼しました。

私は、「何時から古物商人になった」と知人に冷やかされながら少しでもお役に立てばと思って活動しています。

近所の寝具屋さんに助けてもらいました。当時は羽根布団が人気となり、綿布団が替わるときで布団屋も商売繁盛でした。古い布団は区役所で100円で引き取ってもらわずに、私の所に運んでくださり消毒して新しいカバーをかけて必要な人に差し上げました。

帰国者に最初に必要なのは寝具です。5人分も買う帰国者がいます。後から呼び寄せる家族のために、お金がかかっても買います。それでもやりくりして早く呼びたいのです。厚生省の方針はまず帰国して定着した人が自立してから家族を呼びなさいとの方針です。私たち引受人には帰国者を早く自立させるようにと指導員ら要請されますが、無理があるので討論することになります。私は言うことを言って協力する主義です。早く自立させろと言いますが、日本語も話せない人を誰が雇ってくれるのかと反論しました。指導員は上からの命令口調です。私たちベテランのボランティアはうるさいでしょうが、やることはやっているので強いのです。

どうして帰国者の支援活動をするのと尋ねる人もいます。丁寧に説明してわかって頂きます。昔、満州事変後に満州へ渡り、まだ治安が悪かったころ貧乏していて向うで育てられたことなどを話し、中国語ができるので少しでもお役に立てばと思って…と話します。「そんなことをやっているんですか」「ええ、そうですよ」「裁判はどうなったの?」「まだ解決しないよ」などとお話します。

帰国者が日本に帰ってきてよかったということになって欲しいです。永年の支援活動が終了する日を祈って。

私はボランティアの集大成として虹の会の副会長をやめさせていただきました。西大井で80歳から始めた教室は独特の教室運営で8年も継続して皆様から喜ばれました。裁判終了まで続けると約束したことを守り、健康のためにも88歳で皆さんの了解を得て終了しました。大したこともできず心残りがありますが、皆さんに喜んで貰ったのは事実です。

今もずっと年2回会食して親睦しています。優秀な人たちはNPOに参加して副理事長や理事に選出されて活躍しており、私は嬉しいの一言に尽きます。

日中友好中国帰国者に幸いあれ。万歳!

97歳の老人。失礼の段、年に免じてご容赦ください。

  • 93歳のお祝いを皆さんと
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  • 九段会館にて表彰を受けました
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  • 紅の会の活動 家族慰安会
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  • 先生方の誕生会
    先生方の誕生会
  • 第18回中国帰国者日本語発表会
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  • 日本語教室終了式 生徒さんと
    日本語教室終了式 生徒さんと
  • 平成18年日本語教室の忘年会での様子
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  • 中国残留孤児問題全国協議会 会報「黎明」
    中国残留孤児問題全国協議会 会報「黎明」
  • 日中友好残留孤児虹の会のパンフレット
    日中友好残留孤児虹の会のパンフレット
受賞者とみなさまをつなぐプラットフォームプロジェクト「ひとしずく」