受賞者紹介

第56回 社会貢献者表彰
さとう ほうぞう

佐藤 宝倉

(フィリピン)
佐藤 宝倉

1976年に司祭となった佐藤神父は、聾者の信徒との出会いがきっかけで手話を始めた。海外の聾者との交流や支援のため、英語の手話を習得したのち、既に交流のあったフィリピンへ2002年に派遣された。翌年マニラに聾者に手話や読み書きを教える「アシジの聖フランシスコ・デフ・センター」を設立した。その後、地方の無医村などで多くの聾者が教育を受ける機会がない事を知り、サマール・カルバヨグ市にも支部を設立した。マニラのデフセンターでは、リーダー養成に力を入れており、生徒は聾学校の教員になることを目指している。サマール・カルバヨグの支部では、聾者の教育を主としている。将来、教育を受けた聾者が手話の教員養成や職業訓練を自分たちで行い、運営資金を自分たちで賄うことを目指す。また、同国では障がい者を隔離しておくという発想が強い点を変えてゆくことも目標のひとつ。フィリピン人による自立した聴覚障がい者の共同体作りや、地方に暮らすしかない障がい者の自立や教育を受ける機会の拡大を目指して活動を続けている。

推薦者:海外邦人宣教者活動援助後援会(JOMAS)

それは、1976年に私がカトリック司祭に叙されて一ヶ月後の事だった。夏の暑い日曜日、目の前にろうの青年が現れ、聖書を学びたいと言う。私にとっては忘れられない東京での出来事であった。問題は、話が通じ合わないだけではなく、私は聴覚障害者については全くの門外漢であったということだ。聖書にあるように「地の果てまで宣教に出かけたい」という私の若き日の野望は瞬く間に崩れ去った……二年の歳月が流れて、新たに赴任した教会に二組のろう者夫婦がいた。その教会の担当者として、私の手話は自然に始まった。

手話を学んで20年が経った頃、私は日本のろう者とフィリピンのろう者の架け橋になりたいと考えた。人生の岐路に立って私を触発するのはいつもろう者の友人等であった。「フィリピンに行って、小さなろう学校を創ってみろ!」と乱暴な言葉を投げつけてくれた日本のろう者友人、補聴器は要らないと声には出さないが、眉尻を下げてフィリピンにはフィリピンの手話があると訴えるフィリピンのろう者友人たち(1992年からフィリピンのろう学校に補聴器を寄贈する事業を開始していた)。1999年、フィリピンに赴く準備としてワシントンD.C.にあるギャロデット大学でアメリカ手話を学ぶために渡米した。僅か一年余りであったが、そこで体験したデフたちの持つアイデンティティと言語としての手話理論についての理解は、質と量においまだ不十分であったものの、私の船出を後押しするには十分なものであった。

2000−2001年、準備期間としてマニラの大学でろう者に教えることになった。そして2002年、正式にフィリピンに赴くこととなり、現地でのNGO「フィリピン・アシジの聖フランシスコ・デフ・センター」設立準備を開始し、将来ろう学校で教える希望を持ったろう者大学生を募集すると同時に手話通訳者及び教師としてろう教育に携わろうとする聴者も募集した。1990来訪問し支援してきたろう学校出身の優秀な学生たちが集まってきてくれた。これまで大学を卒業した10名の内5名のろう者が実際に各地でろう教育に携わり、一名は当会の職業訓練指導者として活躍している。

近年、小学校から高校までが12年制となり、就業年数が延長し、フィリピン手話が法的に認められ(RA11106)、ろう者の教育環境は一定の前進を見せているが、手話による教育の推進を計るための人材養成に努め、手話通訳者養成の継続、ろう学校卒業生の仕事も開発していかねばならない。何ひとつ自分達だけでできるものはない。周りの関係者に教えを乞い、協力体制を強化していかねばならない。この度の受賞を一つの起爆剤として、更なる一歩を踏み出す所存である。

 

  • 手話でスピーチする佐藤神父
    手話でスピーチする佐藤神父
  • 授業風景
    授業風景
  • 授業風景
    授業風景
  • 生徒の怪回答に笑う佐藤神父
    生徒の怪回答に笑う佐藤神父
  • デフセンターの情業風景
    デフセンターの情業風景
  • 奨学金授与の集まり
    奨学金授与の集まり
  • 奨学金授与式のスナップ
    奨学金授与式のスナップ
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