受賞者紹介

平成24年度

東日本大震災における貢献者表彰

うめた ゆういちろう

梅田 祐一郎

(46歳:宮城県気仙沼市)
あいこう かすみ

愛甲 香純

(31歳:宮城県気仙沼市)
梅田 祐一郎
梅田 祐一郎
愛甲 香純
愛甲 香純

気仙沼市シルバー人材センターの職員で、3月11日の震災当日、高台に位置するセンターには津波から逃れようと避難者が集まり、緊急の避難所となって、約40人の人々と一夜を明かすことになった。その際二人が中心となってセンターにあったタオルやトレーナーなどをあるだけ配り、翌日の朝には流れ着いた壊れた冷蔵後を解体してかまどを作り、水産業者から提供された雑炊で炊き出しを行ない、避難者や被災した多くの人に温かい食事を配った。その後も避難者のサポートを8月頃まで行った。

推薦者:宮城県気仙沼市シルバー人材センター 柏木 芳朗

あの日を忘れてはいけない
 梅田 祐一郎

「俺が受賞?いいの俺で?」受賞の通知が来た瞬間の正直な気持ちです。同じ被災地で
私以上にご苦労され救援活動を行っているみなさんが多くいる中で、何か申し訳ない気持ちです。私は、人として当たり前のことをしただけですから。

今振り返って見ると、あの当時は頭で考えて行動したのではなく、感性で身体が勝手に動いただけだと思います。

巨大津波が容赦なく沿岸部を襲い、燃え上がる大炎に包まれた市内。しまいにはみぞれ雪まで降って来て、「神様はどこまで虐めるのか」と天を見上げ罵りました。

当センターは高台に位置しており、約40人の方々が行き場を彷徨い事務所に来られました。幸いにも反射式ストーブが数台あり、タオル、軍手、厚手のトレーナーをみなさんにお渡しして、あの悪夢の一夜をしのぎました。「みなさんを生かさなくちゃいけない。」と心を奮い立たせ、翌日は日出ともに行動し、水や食料の確保に無我夢中で走り回りました。必然的に避難場所となり、多くの支援物資が届くようになると、困っている方々への配布作業も同時に行い、避難していた最後の方の住居が決まり、避難場所としての役目を終え、私も家族と一緒に仮設住宅に住むことが出来たのは八月初めでした。

長年住んでいた場所がわからない殺伐とした街から、異臭の漂うガレキの街となり、今では、淋しい限り何もない街に変貌してしまった気仙沼市。この夏には雑草だらけの街と変わってしまうのか?

震災から1年が過ぎました。震災直後は、1日1日を生き抜くことで精一杯でした。現在の方が、今後の生活を考えなくてはいけない分、精神的には苦痛かもしれません。いくら考えても答えが出てこないのです。

しかし、少しでも前に進まなくてはいけません。そろそろ世界中、全国のみなさんからの温かいお心に「甘える心」だけでなく、「自立する心」を強く持つことが大事と考えます。

自らの両手で、自らの両足で、幸せを掴まえなくちゃ。運よく生き残った命です。生かされている命です。一度きりの人生です。決して後悔しないように、市民のみなさんと温かい言葉を互いに掛け合い、泣く人生よりも笑う人生を心がけ、「笑う門には復興来たる。」と「いつか必ず恩返し」の気持ちを忘れずに、故郷気仙沼でこれからも暮らして行きます。

 

愛好香純

この度、このような栄を賜りましたこと、心より御礼申し上げます。また、ご推薦くださいました公益社団法人気仙沼市シルバー人材センターの柏木芳朗理事長には、日ごろからの感謝とともに御礼を申し上げます。

シルバー人材センターの基本理念は「自主・自立・共働・共助」であり、当センターに避難された被災者の皆さまも、混迷する中、その理念の元で気丈に避難所を自主運営されておりました。食材も少ない中、にぎりたての暖かいおにぎりをいただいたり、元気の良過ぎる子供達を自衛隊のお風呂に連れて行ってもらったりと、皆さんからは支えられるばかりでした。また、当センターの三浦常務理事をはじめ、センターに携わる皆様の人脈により、沢山の救援物資が全国各地から寄せられました。いただいた救援物資の配布も、梅田事務局長の抜群の行動力があってこそであり、私たちは各々の所属等を活かし、協力して行った活動です。私は、ただただ多くの方に支えられながら、震災後の毎日をなんとか必死に生きていただけであり、この度の受賞を恐縮するばかりです。

昨年の8月1日、当センターに避難されていた方々はそれぞれの生活へと戻りました。しかし、あくまでも仮の住まいである方が多く、繰り返される日常が落ち着きを取り戻したかの様にも思えますが、これから先の生活への不安は決してぬぐい切れてはおりません。避難所として活用された事務所の2階には、今年2月、復興庁の気仙沼支所の事務所が設けられましたが、いつまで事務所を設けるのか、勿論目途はないとのことです。生かされた命、少しでも多く方の希望と笑顔のためにと、同伴してくださいました境県議とともに「今」を歩んでおります。

最後に、職場の皆様、友人、家族、私に携わり支えてくれている皆さま、普段口にはしませんが、いつも感謝しております。震災当日の朝、亡くなった母と挨拶さえも交わさず仕事へ向かいました。「当たり前」は続くものだと過信していたのです。毎日些細な事でケンカをし、親孝行どころか感謝の気持ちを伝えることさえも出来ず、あげく、いつも心配ばかりをかけていました。なに1つ母に返すことはできませんでした。この場を借りて伝えさせてください。「お母さん。私はあなたの娘に生まれて良かった。ありがとう。私はあなたのように強く生きる。泣き言は言うまい。」