受賞者紹介

平成24年度

東日本大震災における貢献者表彰

さくらい きょうこ

櫻井 京子

(73歳:宮城県東松島市)
おがた たくみ

尾形 拓海

(16歳:宮城県塩釜市)
櫻井 京子
尾形 拓海

京子さんは東松島市の自宅で地震に遭い、知人の車で避難所である小学校の体育館へ避難した。そこで、同じく体育館に避難してきた孫と合流。避難所の体育館に一気に水が流れ込んできて、誰もが茫然とする中、水につかっていた子どもや高齢の女性、耳の聞こえない男性を、体育館の2階で孫と二人で次々と救助した。

推薦者:櫻井 京子

櫻井 京子

平成23年3月11日、突然の強い地震に驚き、一人暮らしの私は、隣人に娘の家に連れて行ってもらいました。娘と孫二人と伴にもう一人の孫を野蒜小学校体育館に引き取りに向かいました。

学校周辺の方も次々と避難して来ていました。知人もたくさん居ました。

「大きな津波が来る!」という情報があり、「校舎三階に移動しよう」と入り口に向かったところ、小学校校門を真っ黒な水が固まりとなり、飲み込む様に越えてくるのが見え、「体育館の二階へ!」とあわてて昇りました。

館内に入って来た真っ黒な水は、あっ!という間に渦を巻きながら二階ギリギリまで押し寄せました。とても恐ろしい光景でした。そんな中、中学校二年の孫が、傘を使って浮いたマットレスに乗っている先生などを助け、協力しておぼれている方々を助け上げていました。孫が落ちはしないかと心配していると、どす黒い水の中に二人の知人の顔が見えました。夢中で、孫に助けるように声を張り上げ、すこしずつ上がってきた知人をまた、おちないように私も微力ながら引き揚げました。もう一人の知人も何とか助ける事ができました。

このように多くのかたが協力して救助活動していた中、私が表彰していただきとまどいもありますが、この度は本当にありがとうございました。

そしてあの場で犠牲になられた方のご冥福を祈り続けたいと思います。

 

尾形 拓海

今度、この表彰をされる事になり、とても嬉しい反面、僕以上の人命救助をされた方を思うと戸惑いを感じていますが、本当にありがとうございます。

震災で津波が来た時、僕と母、祖母、弟二人は野蒜小体育館に避難していました。そして、避難しておよそ10分後に体育館入口から津波が来たのが見え、館内にいる全員は2階へと急いで避難しようと登りました。ですが2階に上がるためには階段が一箇所しかなく、大変混雑していました。

ほとんどの人たちは2階に登ることができましたが、お年寄りの方や車椅子の方などは遅れてしまい登ることができずに溺れてしまった人がいました。実際、僕が助けた人は多くがお年寄りの方たちでした。

津波が2階まできてしまうのではないかと焦りましたが、水位はだいたい体育館の2階ぎりぎりで止まり一時は安心しました。

マット運動のマットが浮いていたり、流されてきた瓦礫などが浮いていましたが、ステージ側では津波で溺れている人がカーテンに掴まっていました。

その時目の前に浮いていたマットにしがみついていたお年寄りが2人いて、マットを何とか引き寄せ助けました。助けるときは、服などが水を吸っているのでとても重く、特にお年寄りなので、力任せに引き上げてしまうと骨などを折ってしまう危険性もあり、一人を引き上げるのはとても大変でした。

ですが、とにかく水から救い出すために力をいれて助けました。水位が足元付近だったため、浮いている人も助けやすくそれだけでもだいぶ楽でした。もし2階付近まで来なかったら、あの時助けた人を助けられなかったかもしれません。

水が引くまでかなりの時間を要し、引くまでに度々来る大きな余震などで、恐怖心が煽られ、怯えていました。

その後は、だんだんと水位が下がって来ましたが、完全に水が引く頃にすでに午後9時を回っていた気がします。

同時に、亡くなってしまった人達も次々目に入ってきました。暗くてよく見えませんでしたが、おそらく5〜6人ほどはいたのかもしれません。水がひいたため、体育館から校舎へ移動することになり、移動しましたが50mほどの距離の道を瓦礫が押し寄せていくのも大変でした。

流れ着いていた車の上を登ったり、暗い中足場も悪く危険でした。お年寄りと子供は危険ということで大人の人達で背負って行ったりしながら移動させており、僕も同じように背負って手伝っていました。全員移動させ終わった頃には、午後11時近くになっていて、疲れが、出てきたので、眠りました。

1時間ほど寝て、起きたあとは助けたお年寄りにありがとうと感謝され、助けてよかったと思いました。

その後、3階にいたので外を見ましたが、いつも学校は通っていた道すらわからないほど瓦礫が押し寄せ、家々も跡形もなくなっていて、大きな衝撃を受けました。

現在は、震災以前の生活に近づきつつある日々を過ごしていますが、まだ困難な部分などもあります。ですが、この故郷野蒜、そして東北が必ず復興できると信じ、支援してくれた人たちに感謝しながら、自分にできることを見つけ、更なる、復興へ取り組んでいきたいと思います。