受賞者紹介

第52回 社会貢献者表彰
のむら ひろし

野村 浩史

(岡山県)
野村 浩史

西日本で猛烈な雨が降り続いていた2018年7月6日、岡山県倉敷市真備町の自宅で野村さんは両親と過ごしていたが、車が浸水するかもしれないと思い、午後10時過ぎに車を高台に移動させた。雨が小康状態になるのを車中で待っていたが、雨の勢いは止まらず、両親が気になり車を残して自宅へ戻る途中、川の決壊で冠水し、水位は胸のあたりまで上がってきた。「これはまずい」と思った時、車の中に釣り用のゴムボートがあるのを思い出し、ガソリンスタンドで道具を借りボートに空気を入れると朝7時になっていた。
両親は市のボートで救助されたことを知り安堵したが、ボートを漕ぎだすと、水没した屋根の上で助けを求める人や水に飲み込まれそうな高齢者が見えた。水面を流れる瓦礫でボートが破れないよう慎重に進み、高齢者から順番に定員3人のボートに乗せ、ふたりずつ土手まで運び、住宅と土手の間を十往復し約20人を助け出したが、野村さんは疲労と脱水症状でボートの上で倒れ、流されているところを友人に発見され、救急搬送された。
野村さんが数日で退院すると野村さんに救助された近所の人たちがお礼に訪れた。

『西日本豪雨を経験して失ったもの、そして…得たもの』

この度、社会貢献者表彰式典におきまして栄誉ある賞を賜り心からお礼申し上げます。
2019年7月21日、22日は今まで生きてきた人生、そしてこれから生きていく人生の中でも本当に忘れられない日となりました。受賞された方々とも楽しく交流させて頂く事ができ、本当に有意義で最高の時間を過ごさせて頂きました。安倍会長をはじめ社会貢献支援財団の皆様、本当にありがとうございました。
私はタイトルに書かせて頂いた通り2019年7月7日 西日本豪雨により被災しました。

西日本豪雨前日の夜

豪雨が降り続く6日の夜、ただの直感でしかありませんが嫌な予感がした為、高台へ車
を移動させ避難していました。

父の避難

数時間経過した頃、母から『父ちゃんは車が二台とも浸かったらダメだから一か八か車を高台へ移動させに行った』と連絡が入りました。もし、途中で車が止まっていたらと心配になり歩いて家の方に向かっていると高台への道は避難している車で大渋滞でした。その渋滞の中、なんとか父を見つける事ができ私は一安心しました。そしてそのまま家の方へ2kmほど歩いていくと想像を絶する光景が目に飛び込んできました。そこには数時間前、高台へ上がる際に通った道は無く、見えるのは水だけでした。

我慢の数時間

すぐにでも母を助けに行かないと、と思い、自宅に向かいましたが辿り着く事すらできず、自宅に着く遥か手前で水位は既に私の身長を超えていました。真っ暗でなにも見えない、今動いても無駄だ、はやる気持ちを抑え一旦高台へ戻りとにかく助ける方法だけを考えました。

ゴムボート

私は自分の車に積んであるいつも釣りで使っているゴムボートの存在を思い出した。「もぅ、行くしかない」夜明けと同時に救出へ向かう為、準備を開始しました。しかし、ここでアクシデント発生、ゴムボートを膨らます空気入れが見当たりません。丁度そこへ友人が駆けつけてくれ被害に遭っていないガソリンスタンドへすぐに車を走らせなんとか膨らます事ができ、土手の上からゴムボートを浮かべました。

未知の世界

いつも上を見上げて見ている場所を今、自分がゴムボートを漕いでいます。目の前には電線、瓦礫やガスボンベがそこら中浮いています。正直、ほんとうに怖くて仕方ありませんでした。しかし、気づいたらボートを漕ぎ続けている自分がいました。母を救出するため。その思いがそうさせたのだと思います。

電話

どうにか自宅までたどり着いた私は大声で母を呼びました。しかし応答がない上に家の窓も全て閉まっていました。もしかしたら家の中で…。窓ガラスを割ろうと思った瞬間、父から電話が鳴り『母ちゃんはレスキュー隊の方に救出してもらったから大丈夫!』その言葉を聞いて力が抜け、今自分が置かれている状況を冷静に考える事ができて余計に怖くなりまし。
助けを待つ人達
母の無事も確認でき土手へ帰ろうと思い顔を上げた瞬間、そこには逃げ遅れたたくさんの人達がタオルを振ったり、大声を出したりして助けを待っていました。私はその光景を目の当たりにし、そのまま土手へ戻る事はできませんでした。

救助活動

私はそこから救助活動と呼べるかはわかりませんが、ゴムボートの定員数と機動力の事も考え、二人ずつ乗せて土手との往復を繰り返しました。

11回目の救出

11回目の救出に向かった直後、体に異変を感じました。手足が痺れ、上手く漕ぐ事ができません。更にその痺れは体全身へと広がり、最後は上手く喋れなくなっていました。前日からほとんど水分も取れていない状態、更に暑さと湿気で脱水症状を起こしてしまったようでした。その時は既に記憶はなく、はっきり記憶があるのは病院に搬送された時でした。ゴムボートの上で倒れた私はたまたまいい方向に流され、屋根の上に避難していた近所の後輩のところへ流れついて助けてもらいました。私は一番やってはいけない二次災害を引き起こしてしまい、たくさんの人に迷惑をかけてしまったと反省しています。

仲間

私は4日間入院して退院後、その足で自宅に向かった。そこで目にしたのは仲間の姿でした。私が入院している時からあの暑い中何十人もの仲間が家の片付けが全て終わるまで毎日駆けつけてくれました。本当に「ありがとう」の言葉しか出てきませんでした。

最後に

私は、タイトルに書かせて頂いた通り、西日本豪雨により家屋や家財などお金で買える全てのものは失いました。でも、この災害を通じて何かお金では買えないものを手に入れられたように思います。本当の仲間とは何か。もちろん楽しい時にワイワイ集まってくれるのも仲間です。でも辛い時、苦しい時、困った時にそっと手を差し伸べてくれ、集まってくれる仲間。そんな本当の仲間がたくさん居てくれて私は幸せ者です。

  • 東京新聞(2018年7月13日)
    東京新聞(2018年7月13日)
受賞者とみなさまをつなぐプラットフォームプロジェクト「ひとしずく」