受賞者紹介

平成24年度

東日本大震災における貢献者表彰

とりごえ こうじ

鳥越 紘二

(72歳:宮城県塩釜市)
鳥越 紘二
(宮城県塩釜医師会
副会長)

平成16年に宮城県塩釜市医師会副会長に就任以降、宮城県沖地震に備えた準備を着々と進め、大災害時医療救護検討委員会を設置。毎年地震発生時における医療救護活動の備えに関する講演会を開催。平成18年には管内自治体と「災害時の医療救護活動に関する協定書」を取り交わすなど采配を振るい、準備が整いつつあるころ大震災が発生した。無線の配置や非常時連絡網の整備、緊急通行車両の事前届、トリアージの実技講習など準備を整えた。震災発生後、医療救護活動本部長として指揮を執り、被害の大きかった塩釜地区において、多大な貢献をした。

推薦者:社団法人 宮城県医師会 会長 嘉数 研二

私の東日本大震災

鄙びた岩手でのんびり育ったのにも拘わらず若い頃から予感力が強く、いろいろな事象で今迄それが証左されて来ていました。それに加え31年前、医院を開業してからは霊感も感じ、さもない縁の人の安否が夢に出るようになりました。

35年前の夕刻、宮城県沖地震を当時勤めていた病院で体験したことから、大災害(地震、津波)がくることは、私には確信となって来ていました。宮城県塩釜医師会大災害医療対策本部長として、それらに対応するため6年前から、大地震を体験した大阪府立病院救急部長や新潟中越地震で医療と避難所巡りを行った庭山医師会長を当地へお招きして、その実際の経験談の研修を地元医師会員や消防、市職員と一緒に聞きました。

更に塩釜市、多賀城市、松島町、七ヶ浜町、利府町の自治体と大災害時の協定書を結び、医師会員を5班に分け二次救急病院を決め、診療可能な医院、病院には黄色の旗を立てるよう1.2m四方の布を配布し、他府県の医療班と地元のそれを区別するため緑色の塩釜医師会のジャケットを配りました。個人的には、米30袋、レトルト食品、乾パン、カップ麺などの食料品、石油ストーブ6基、ポリタンク1ダース、練炭ストーブ、蝋燭、懐中電灯等を6年間とり換えながら用意していました。

実際に地震、津波がきたとき、七ヶ浜町、多賀城市の被害が大きく松島町、塩釜市はそれに較べ多くの島々が防波堤となり死亡者は少なかったのです。当院も津波は玄関まで来たが、床上まで来ず、電気、ガス、水道は止まったが怪我人、被災者を受け入れました。

3月13日から、塩釜市7ヵ所、多賀城市2ヵ所、七ヶ浜町2ヵ所の避難所を回り、体調の悪い人、病気の人へお薬を手渡し、脱水症の人には車で医院まで運び点滴注射をして、骨折の人も同じく手当をして避難所へお送りしました。

これは私の医院が院内処方でお薬があったからできたことで他の医院、病院は院外処方のところが多く、処方箋だけでは薬局に行く手段が無く、また薬局も被災し閉じていることが重大な問題でありました。

避難所の塩釜市立第三小学校、第三中学校では13日もおにぎり1人1個で暖房は体育館に石油ストーブ1個と寒いなか、空腹で我慢している姿を目にし、若者はイライラしており、胸がつまりました。

ガソリンが無く本部との連絡もできないなか、各市職員は不眠不休で頑張っているのも、印象に残りました。

このように避難所を巡ることができましたのも、日頃お付き合い頂いた方々がプロパンガス、簡易トイレ、発電機、毛布、更に笹かまぼこ、パン、お菓子、飲料水、お魚、刺身などの食料をすぐ差し入れしてくれ、入院患者、職員、避難者への食料、暖房など後方の憂いが無く、活動出来たおかげと心底より感謝しております。

岩手の中学時代の同級生や縁者、山形の大学時代の同級生から大量のお肉を届けて頂き、ありがたく心に染みております。また、疲れが溜まった3月19日の連休に遠く新潟県の魚沼医師会から上村・布施両先生が応援に来て下さり、心から感謝している次第です。

今回の大災害では、その人その人の人間性、価値観、倫理観、人生観があからさまにみることができました。また、これをお互い乗り越えることにより戦友のように心に相通ずるものができ、親戚、家族を亡くした人、家を流された人、職場を失った人の心の傷が痛いように分かり、患者、医師に垣根を越えて話を聞くようになりました。

この震災の急性期が落ち着いた時、南三陸町の腎臓の悪い患者13名が医師ともども頼ってこられ、4月からは急遽人工透析を始め、今も5名が譲り受けた医院の隣の家に住んで頂き治療している次第で、今回の震災の影響は、まだまだ長く続きそうです。
千年に一度と謂われる大震災、大津波の避難や、体調をくずした人、けがの人に天の時、地の利、人の和とその準備で役立てたことは、医者冥利につき神様、ご先祖様に深く感謝しているところです。